私が生まれた時には、すでに祖父・寅次郎は亡くなっていました。しかし幼い頃から父が語る寅次郎に関するさまざまな話が好きで、ワクワクしながら聞いていました。なかでも、まだ日本と国交が開かれる前のオスマン帝国での寅次郎が経験した「冒険談」のようなエピソードは大好きでした。
寅次郎は幕末(1866年)に生まれ、90歳で没するまで明治・大正・昭和を生きました。もともと武家の出だったので、「困った人がいたら助ける」という気持ちの強い人だったと聞いています。2歳の時に明治維新があり西洋化がはじまりました。寅次郎が青年期になる頃には、青年たちが海外へ派遣され文化輸入も盛んになっていたという時代背景もあり、当時から海外に関心があったと思います。
寅次郎が横浜で暮らしていた1890年に和歌山沖で、当時のオスマン帝国の親善訪日使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号遭難事件がありました。この事件は大きく取り上げられ、寅次郎の知人たちも現地に行って救難活動に参加していました。寅次郎も自分でできることを考え、落語会や講演会など多くの人が気軽に楽しめる演芸会を開き、義損金を集めることにしました。
集めた義損金をどうやって現地遺族に届けるかを外務大臣に相談したところ、寅次郎自身が直接現地まで行ってオスマン帝国政府に渡すことを提案されます。私は義損金を集めた寅次郎もですが、当時まだ若く一介の民間人だった寅次郎に「あなたが行きなさい。そして私たちにあなたが見たオスマン帝国の様子を伝えてほしい」と言った外務大臣が偉かったと思います。
1892年1月、寅次郎は横浜を出港し、4月にイスタンブールに到着。無事オスマン帝国の外務大臣に義損金を渡しました。寅次郎としては、義損金を渡したらすぐに帰国する予定でしたが、その数日後、皇帝アブデュルハミト2世に謁見を許されることになり、大歓迎を受けます。
当時オスマン帝国と日本の間には、正式な国交は結ばれていませんでした。そのような状況で皇帝と謁見できたのは、日本や日本文化に興味を持つ皇帝が常々「日本人が来たら知らせよ」と言っていたといわれる背景があり、たまたま寅次郎が来たので謁見できたという運があったのかもしれません。一方で、欧米列強やロシアに脅威を感じていたオスマン帝国が、似たような立場の日本とつながりを求めていたという時代背景もあったと思います。
謁見後、寅次郎は皇帝から所望された日本の美術品を取り寄せることや、士官学校で日本語を教えることなどを依頼されます。好奇心旺盛な寅次郎は快くその依頼を受け、イスタンブールに滞在することとなりました。
役目を仰せつかった寅次郎としても、トルコという国、その文化を知らなければいけないと考えました。トルコ政府に家庭教師をつけてもらいトルコ語はもちろん、トルコの歴史や文化も学ぶようになります。
こうして、自らも学びながら、同年代の青年将校たちに日本語や歴史・文化を教え、一方では宮殿の東洋美術品の整理なども行うという、トルコでの生活がはじまりました。寅次郎は、日本美術に関して皇帝の今でいう「アートディレクター」的な立場でもありましたが、皇帝だけでなく、日本に興味をもつトルコの知識人にも日本美術を紹介しながら交流を深めていきました。こうして10年以上という長い時間をトルコで過ごすことになります。
寅次郎は政府から長期の滞在許可とイスタンブールで商いを行う権利を与えられます。お墨付きをもらった寅次郎は、イスタンブールの繁華街、ボスポラス海峡にかかるガラタ橋の近くに、「中村商店」を開きました。宮廷御用達のお店として、日本から運ばれたシルクや、陶磁器などの美術・工芸品を販売するようになります。さまざまな商品の写真と説明書きを掲載したカタログをつくって注文を取る販売方法をとっていたといいます。
「中村商店」の一番の顧客は皇帝アブデュルハミト2世。希望の品は美術品に限らず多岐に渡っていました。たとえば、鳥の収集家でもあった皇帝から「日本の鳥を持ってきてもらいたい」と要望された寅次郎は、半年間で「チャボ」などの日本特有の鳥をつがいで集め、船で輸送し宮殿に収めました。鳥の世話をするために日本から連れて行った鳥飼が宮廷に入った際、宮廷にいる鳥飼の人数の多さに驚いたそうです。
また、皇帝がパリ万博に行った際に、日本館のカタログで見たという「柿の木」などの植物を所望され、寅次郎が日本から取り寄せました。その柿の木は今も、ユルドゥズ宮殿の庭に残されています。
オスマン帝国歴代の皇帝は、「詩」や「絵画」など、プロ並みの腕前の趣味を持っていたといいます。器用だったアブデュルハミト2世の趣味は「大工仕事」。日本人の大工仕事の細かさにも興味をもち、「日本の大工道具」を所望されたこともあったとか。寅次郎はすばらしい大工道具一式をそろえ皇帝の希望に応えましたが、身内には「日本の大工は道具じゃない。腕なんだ」と言っていたという話も聞いています。私はトルコを訪れた際に、アブデュルハミト2世がつくった椅子を一度見せてもらったことがあります。とてもしっかりした椅子で、螺鈿の装飾もすばらしい見事なものでした。
日本から持ち込まれる品々は、宮廷の王族や高官たちにも好まれました。やがて注文される品は芸術品に限らず、日用品など多岐にわたるようになりました。一方でまだ日本と正式に国交のないオスマン帝国を訪れた日本人にとって、中村商店は現地の日常の情報を得られる貴重な場所ともなっていたと聞いています。やがてお店は現地の人の経営となりましたが、お店自体は1960年頃まで残っていました。イスタンブールの年配の人のなかには「中村商店」を覚えている人もおり、私がトルコを訪れた際に「子どもの頃、中村商店でブリキのおもちゃを買ってもらったよ」と声をかけてくれる年配の方もいらっしゃいました。