ドナウの流れに包まれるように、ブダペストの街は静かに佇んでいます。鎖橋がそっと灯り、国会議事堂が金色に浮かび上がる頃、目を奪われるその美しさには、かつてこの地に生きた人々の想いや、時代のうねりが息づいています。ブダペストの夜景が美しいのは、光だけではなく「物語」をまとっているからなのかもしれません。今号ではセレナーデ号で訪れるハンガリーの歴史物語へご案内します。
ハンガリーは、ヨーロッパで指折りの長い歴史を有する国の1つですが、その成り立ちや時代の目まぐるしい移り変わりについてご存じでしょうか。まず、「ハンガリー」の由来には諸説あり、その1つに5世紀頃のパンノニア平原(現在のハンガリーがある地域)に侵入してきたフン族の「Hun」に、人を意味する「gari」がついて「ハンガリー」と呼ばれるようになったという説があります。現地での正しい表記は「マジャールオルサーグ(ハンガリー語で「マジャール人の国」の意味)」とされ、現地の方々は自分たちのことを「マジャール人」と称しています。
ウラル山脈西部で遊牧生活をしていたと伝えられる騎馬民族のマジャール人は、9世紀頃からヨーロッパへ移動しはじめました。このことがキリスト教国家からは外敵の侵入とみなされ、戦いが勃発。955年、ドイツ王・オットー1世に敗北し、ドナウ中流域の平原に押し戻されて定住することになりました。かつてマジャール人の7部族を率いる首長だったアールパードの姿は、現在、ペスト地区の英雄広場(画像①)でお目にかかることができます。
975年、アールパード家最後の首長ゲーザの息子であるヴェイク公は、父の意向により洗礼を受け、イシュトヴァンの名を授かりました。1000年には、ドナウ河に面したエステルゴムに大司教座を置き、ローマ教皇よりハンガリー国王の王冠を授けられ、イシュトヴァン1世として即位。ハンガリー王国の誕生です。初代国王はキリスト教国家として国を導き、のちに聖イシュトヴァンと呼ばれました。また、法制度や行政の整備も進め、キリスト教国と相対していた時代から一転、国内の安定と繁栄をもたらしたそうです。その功績の1つとして、現在もエステルゴム大聖堂(画像②)が残されているほか、ペスト地区には聖イシュトヴァン大聖堂(画像③)があり、国の英雄的存在として崇められています。
しかし、13世紀に入ると、モンゴル軍の侵入により大規模な被害を受けることに。当時、ハンガリー軍はヨーロッパ最強といわれていましたが、馬の扱いに長けたモンゴル軍の武力は圧倒的だったようで、1241年の戦いで惨敗し、首都ブダペストは繁栄の跡形もない状況に。ブダ地区に建つ木造だったブダ城(画像④)も攻撃され、その後も数々の戦乱や天災で破壊や再建が繰り返されてきました。
14世紀には、カーロイ1世がヴィシェグラード城を王宮としました。ハンガリー王、ポーランド王、ボヘミア王が当地で会談を行い、重要な外交の場に。しかし、この後の度重なるオスマン帝国の襲撃によりヴィシェグラードも陥落。16世紀には重要な都市としての機能を失い、現在は王宮跡と城址(画像⑤)のみが残されています。
14世紀後半にはオスマン帝国が勢力を拡げ、1396年、ニコポリスの戦いでハンガリー王国は大敗を喫しました。オスマン帝国は一時後退しましたが、まもなく勢力を回復。1453年にコンスタンティノープル(現イスタンブール)を陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼしました。この間に、ハンガリー王国は王宮をブダに整え、1458年にマーチャーシュ1世が国王に即位。常備軍の設置や官僚制の整備などで貴族の封建勢力を牽制しながら中央集権化を進め、領土を拡張。ブダには大学や文庫を設立し、文芸を保護するなどハンガリー王国に繁栄をもたらしました。偉大な王の名はマーチャーシュ教会(画像⑥)として現代に残されています。
豊かで安定した時代が訪れたと思いきや、1490年にマーチャーシュ1世が急逝。ハンガリーはボヘミアとともにポーランド国王を迎えることとなり、それに対する反乱などで国内は混乱に陥っていきました。
さらに、再びオスマン帝国がハンガリーに侵入。1526年、モハーチの戦いで、ポーランド国王兼ハンガリー王が亡くなり、国はオスマン領、オーストリア・ハプスブルク領、東ハンガリー王国に分けられることに。この3分割は、1683年にハプスブルク帝国がオスマン帝国からハンガリー全域を奪回するまで続きました。その後ハンガリーはハプスブルク家の支配下に統合され、1741年にオーストリア大公マリア・テレジアがハンガリー国王として即位。教育や行政の改革が行われ、ハンガリー貴族との協力を強化し、国内の安定と発展を図ったそうです。いまも各地には、オーストリアの雰囲気が漂う建築物や街並みが多く残されています。
19世紀前半にナショナリズムの運動が強まるにつれ、ハンガリーでも民族運動が活発に。1848年、ハンガリー革命が起こりました。一時はブダペストに自治政府が設立されましたが、最終的には政府軍により鎮圧。事態を危惧したオーストリア皇帝兼ハンガリー国王のフランツ・ヨーゼフ1世は、ハプスブルク帝国領をオーストリア帝国領とハンガリー王国領に分ける「オーストリア=ハンガリー帝国」を成立。二重帝国といわれる状態となり、ハンガリーは形の上では独立し、独自の議会を設置することに。この頃、つくられた国会議事堂(画像⑦奥)は、ハンガリー独立の象徴ともいえます。
また、1896年にはハンガリー建国1000年を記念して地下鉄が開業。国が発展する一方で、オーストリアにより支配されていることに変わりはなかったため、その後も完全な独立を求める運動が続きました。
第1次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗北し、1918年に「ハンガリー共和国」として分離独立を実現。1920年には新たなハンガリー王国が成立しましたが、第2次大戦で敗戦国に。1946年に王制が廃止され、ハンガリー共和国(第2共和国)が成立しました。戦後は社会主義時代を経て、徐々に改革が進み、1989年に共産主義体制が終わりを告げました。当時、市民は鎖橋(画像⑦手前)に集まり、国の新たな時代の幕開けを祝ったといわれています。
波乱に満ちた長い歴史を駆け足でご紹介してきましたが、ハンガリーの印象はいかがでしょうか。国の歩みを知ることで、いま私たちが目にする街の見え方も変わってくるかもしれません。ぜひ、秋のセレナーデ号の船旅で好奇心を満たす歴史探訪をご満喫ください。