地中海に面して点在する南フランスの街々は、ヨーロッパでも一足早く春を感じられる場所。集う人々の笑顔がはじけるカーニバルが春の到来を告げます。一方、多くの印象派の芸術家たちは、陽光や色彩をとらえてこの地に広がる美しい自然を描きました。日本ではまだ春浅い頃、陽光輝く南フランスを訪れてみませんか。
「南フランス」と聞くと、地中海に面した世界有数のリゾートが広がるコートダジュールや、印象派の画家たちが愛したプロヴァンスの情景が思い浮かびます。いずれの地方も、「プロヴァンス・アルプ・コート・ダジュール地域圏」という1つの行政区画にあります。この地域は温暖な気候に恵まれ、表情豊かな自然景観や古い史跡も多く、何度訪れても新しい発見がある訪問先です。たとえば、ヨーロッパのほかの地域ではまだ肌寒さが残る頃、「紺碧海岸」を意味するコートダジュールに、いち早く春の訪れを告げるカーニバル。暖かい陽光に誘われて、参加者も見学客も笑顔になるお祭りです。
コートダジュール最大の都市ニース。温暖な気候と、海と山に囲まれた自然豊かな美しい街です。18世紀頃から、避寒地としてイギリス人たちが訪れるようになり、次第に鉄道などのインフラも整えられ、現在のようなリゾート地として、広く知られる街になりました。2021年には「リヴィエラの冬季行楽都市ニース」の名称で世界遺産に登録されています。
華やかさで知られるこの街のカーニバルは、13世紀から続く歴史あるお祭り。大掛かりな山車が登場するパレードなど大きな催しとして知られています。現在のような形になったのは1873年。100年も前から、混雑を避けてパレードを存分に楽しめる有料観覧席が設けられるなど、多くの観光客を受け入れる態勢が整っています。
フランスでも最大級のイベントの1つとあって、期間中さまざまな催しが行われます。とりわけ人気なのが「花合戦パレード」。盛りだくさんの花々で彩られた何台もの大きな山車が、観客の目の前を通り過ぎて行く様は圧巻。まさに「花車」と化した山車からは、衣装をまとった「カーニバルの女王」たちが、観客に向けてミモザ、ガーベラ、アイリスなどの花々を投げかけます。観客が花を競い合うように受け取る様子から「花合戦」との名が付きました。
一帯は、花卉産業が盛んで「花合戦」パレードをはじめ、このカーニバルで使われる花の多くが地元で育てられたものです。夜には、カラフルな電飾に飾られた山車が登場する幻想的な「光のパレード」もあります。昼とはまた違った雰囲気のパレードもぜひお楽しみください。
時期を同じくしてコートダジュール東端、イタリア国境に近いマントンでは、特産の大ぶりなレモンを使った「レモン祭り」が行われます。色とりどりに彩色された家々が並ぶマントンは、明るい雰囲気の街。温暖で晴天率が高く、ニース同様に避寒地としても人気があります。
当初は普通のパレードが行われていましたが、1934年から、地元産のレモンやオレンジなどの柑橘類で装飾された、大きなオブジェが登場するようになりました。期間中は街中の庭園などにもレモンやオレンジ、グレープフルーツなどでつくられた、大きなオブジェが展示され、日中いつでも見学できます。祭りには、毎年100トンを超す柑橘類が用いられるとか。パリオリンピックのあった2024年のテーマは「オリンピアからマントンまで」、25年は「星への旅」でした。来年はどんなオブジェが登場するのか、年々進化する「レモン祭り」を街の人たちも楽しみにしています。
温暖で自然の風景も美しいプロヴァンス地方は、多くの芸術家に愛されました。街のあちこちに噴水がある水の街エクス・アン・プロヴァンス。1839年にこの街で、ポール・セザンヌが生まれました。父は銀行家で、中学時代の友人には、小説家のエミール・ゾラがいます。少年時代、ともに山を歩き、文学や美術など、興味のあることについて語り合ったことでしょう。
セザンヌは、画家を目指し、22歳でパリに出たもののすぐには認められません。やがてピサロやモネ、ルノワールらと出あい、1874年の「第1回印象派展」にも参加。しかし、徐々にパリの画壇から距離を置き、故郷エクス・アン・プロヴァンスを拠点に、自らが求める絵画を探求するようになります。光の表現にこだわりすぎず、形をとらえることを重視した作品は、画家仲間から高い評価を得ました。
晩年のセザンヌは、故郷でさまざまなモチーフを描き続けています。何枚も残したサント・ヴィクトワール山や、「りんご」をモチーフにした静物画の作品群が特に有名です。アトリエはセザンヌが絵筆をとった当時のままに残されています。セザンヌが愛し描いた街を少し歩けば、今も変わらないその情景に、思わす足が止まることでしょう。
セザンヌの2歳年下のルノワール。2人は生涯にわたって交流がありました。ルノワールは、陶磁器で名高いリモージュで生まれ、20歳の頃、パリの画塾で本格的に学び始めます。画塾でクロード・モネやアルフレッド・シスレーらと出あいます。
仲間たちと取り組んだのが、色を混ぜ合わせることはせず、1つひとつの筆触が隣り合うように配置する筆触分割という技法。離れて見ると色が混ざっているように見えるため、自然光の変化を描こうとする画家たちに用いられました。第1回印象派展にも参加。女性の肖像や、日常を切り取ったような柔らかい作風で評価を得ていきます。
1899年以降は、リウマチの治療のために、南仏のカーニュ・シュル・メールで過ごすようになります。カーニュの広大な農園を購入し、そこで晩年を過ごしました。この時期の作品には、柔らかなバラ色で描かれた裸婦が多くみられ、それらはおおらかな地中海的表現と評価されています。晩年は車いすの生活を余儀なくされつつも、見る人を幸せにするような作品を残し続けました。南仏の気候風土が彼に与えた影響を感じずにはいられません。
セザンヌやルノワールがパリで活躍しはじめた頃、1863年にパリで、ポール・シニャックが生まれています。シニャックは建築家志望から画家に転向し、最後の印象派展(1886年)に出品。この印象派展には、スーラが、代表作『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を出品していました。スーラはこの作品で、筆触分割をさらに追求した点描画法を確立したとされています。シニャックは、スーラらから大きな影響を受け、その後画法を引き継ぎ、「新印象派」と呼ばれるようになります。
1890年代からシニャックは、南仏の小さな漁村に過ぎなかったサントロペに別荘をかまえて拠点とし、その情景を描き続けました。その色彩と構図は大胆になり、後年のフォービスムも先駆けともいわれています。街のアノンシアード美術館では、シニャックの作品はもちろん、フォービスム時代のマティス、ブラックなどの作品なども見られます。
最後に南フランスの旅にとっておきのホテルをご紹介しましょう。ニースの天使の湾を目の前に佇む「ル・ネグレスコ」。ニースを代表する、国定史跡に指定されているホテルでの滞在は、記念に残るものとなることでしょう。充実した絵画の館内コレクションもこのホテルの自慢です。